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岡本太郎という芸術家を知っているだろうか?
1970年の大阪万博を象徴する巨大な建造物「太陽の塔」。その生みの親であり、1981年の日立マクセルのビデオテープCMで放った「芸術は爆発だ!」という強烈なメッセージで日本中を席巻した、稀代の芸術家だ。この言葉で、1986年の流行語大賞も受賞した。
岡本太郎がこの世を去ってから、2026年1月7日でちょうど30年。大きな節目を迎えた今、その人気は衰えるどころか、むしろ加速しているように感じる。
その勢いを象徴するのが、岡本太郎の哲学や作品をモチーフにした特撮ミニ番組『TAROMAN(タローマン) 岡本太郎式特撮活劇』だ。2022年にNHKで放送されるやいなや、そのシュールで熱い世界観がSNSを中心に話題となり、ついに4月22日からNetflix(ネットフリックス)での独占映画配信も開始。
筆者も幼少期から岡本太郎の作品に魅せられ、今年3月の中旬に「太陽の塔」の内部を訪れたが、平日の昼にも関わらず予約は満杯。若い世代や外国人観光客の熱気に包まれており、国境や時空を超えて愛されていることを肌で感じた。
実際、日本ロマンチスト協会が20歳以上の男女1,000人を対象に行った調査(※)によると、「知っている(62.3%)」「よく知っている(13.8%)」を合わせて全体の約8割が、名前と作品を認知しているという結果が出ている。


岡本太郎の人生を紐解くうえで、カギを握る人物がいる。父の東京美術学校(現在の東京藝術大学)の学生だった岡本一平と、母の歌人・岡本かの子だ。帝国劇場が開場し、新たな時代の足音が聞こえ始めた1911年(明治44年)に岡本家の長男として橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区二子)に生まれた。
母・かの子は、豪農の長女としてエリート教育を受けた才媛であり、後に仏教研究家としても高く評価された人物。一方、父・一平は、朝日新聞で売れっ子漫画家として活躍し、当代随一の人気を誇った。生まれながらにして文化的素養にあふれた家庭だったが、その実態は驚くほど壮絶で、両親は太郎以上に常識にとらわれない、究極のロマンチストだった。
さらに、一平は漫画家として収入が増えだすと金遣いが荒くなるダメンズの頭角を現す。一方、かの子は家事、育児が極端に不得手で、一平への不満から二人の恋人を作り、ついには一平公認のもと、「夫と息子、二人の愛人」が一つ屋根の下で暮らすという、奇妙な共同生活に至るのであった。
太郎は自分の本の中で、幼少期を以下のようにふり返っている。
考えてみれば、両親とぼく。一家三人の関係は特異だったのかもしれない。ぼくは幼い頃から、子どものくせに、と言われたことは一度もない。
ほんとうに赤ん坊のときのことは別として、小学校に入ったときくらいからは、ぼくの場合、両親とは人間同士としてまったく対等の関係だったんだ。
母はさまざまの悩みや愚痴、社会的な憤懣(※1)。あらゆることを一人前の大人に話すように、めんめんと打ち明け、投げかけて来た。人一倍多感な、悩みの多い母だったから、ぼくはそれを聞きながら、純粋な者に対する世の非常や残酷に、魂の冷える思いで拳を握りしめた。
(『自分の中に毒を持て』1988年、青春文庫、P163-164、3章-5より引用)
(※1)憤懣(ふんまん):怒りや不満が心の中に溜まり、発散できずにイライラしている状態
かの子は太郎を一人の「対等な人間」として扱い、母の情熱と苦悩を真正面から受け止めて育った。太郎は母の激しい性格をそっくり受け継いだようだが、後に古い因習を打ち破る哲学を持ち、民俗学的な「生命の根源」へ傾倒していった礎は、まさにこの幼少期の混沌の中にあったのだろう。
日本ロマンチスト協会が、岡本太郎を「知っている」と回答した男女300人を対象としたアンケート調査(※)では、彼の魅力の核心が浮き彫りになった。

調査結果によると、最も多く支持を集めたのは「常識を打ち破る『破天荒なパフォーマンス』(44%)」。次いで「圧倒的なエネルギーを感じる『作品の造形美』(38.67%)」という結果になった。
これらを合わせると、実に8割以上の人が岡本太郎が放つ強烈なエネルギーに圧倒され、魅了されていることがわかる。この「破天荒さ」や「激しさ」こそ、まさに母から受け継ぎ、磨かれた生き様そのものだ。私たちは作品から、魂の叫びも受け取っているといえる。

自宅にあった膨大な蔵書に囲まれ、孤独を紛らわすようにトルストイやツルゲーネフをよみふけった小学生時代。その後、中学で哲学にハマった太郎は、運命に導かれるようにフランスへと渡る。
18歳から10年間過ごしたパリでは、リセ(後期中等教育機関)でフランス文化の基礎を学び、パリ大学で哲学や社会学、さらには民俗学の大家マルセル・モースに師事した。太郎が学んだのは学問だけではない。多感な時期に直面した「日本とフランスの恋愛感の違い」は、人生観を根底から覆すほどの衝撃だった。
当初は戸惑いながらも、パリではさまざまな女性と出会い、共に暮らし、そして自然に別れる――。そんな「フランス的自由恋愛」を謳歌した経験は、かけがえのないものだったようだ。
太郎はその神髄を、自著の中でこう表現している。
愛情だけが二人の仲を結んでいる。無条件の関係だから、男も女も相手に対していい加減になれない。その緊張感が女を、また異性としての男をみがくのだ。パリの男も女も年をとってからも何か色っぽいのは、こういう気風と関係があると思う。
(『自分の中に毒を持て』1988年、青春文庫、P140、3章-2より引用)
これこそまさに、これは当協会会長の波房が推奨する「もう一度、恋人時代に」というキーワードそのもの!
役割や慣習に縛られるのではなく、一人の人間として、一人の異性として向き合い続ける。太郎がパリで見出したこの哲学は、毎日をロマンチックに、そして情熱的に生きるための究極のヒントと言えるだろう。

岡本太郎は、個性的な両親との関係やパリでの男女対等な人間関係を経て、既存の「結婚」という形式に縛られることを拒み、生涯独身を貫いた。
ぼくは、結婚という形式が好きじゃない。(中略)
結婚という形式にしばられた男と女は、たがいに協力し合うのではなく、相手の行動に反対の作用をする――こうして、たがいに、人間の可能性をつぶし合うしかない。あるいは結婚という不自由があるからという理由で、自らが自由を実現できないことの、ゴマカシにしている。
(『自分の中に毒を持て』1988年、青春文庫、P144-145、3章-2より引用)
しかし、そんな彼には1948年(昭和23年)の出会いから半世紀もの時間を共に歩んだ「運命のひと」がいた。それは、平野敏子(後の岡本敏子)である。
敏子は単なる「内助の功」に留まる存在ではなかった。太郎が新作を描き始めれば「わーすごい! 先生、次何を見せてくれるの?」と、少女のように飛び跳ねて喜び、太郎の創作意欲を常に高めつづけた。成功者の陰には献身的なパートナーがいると言われるが、太郎がこれほど長く、激しく活躍をつづけられたのは、敏子という「最高のミューズ(あげまん)」の存在が何よりも大きい。
敏子の愛情の深さは、太郎の死後、さらに明らかにされる。
敏子は二人の自宅を「岡本太郎記念館」として開放し、太郎の魅力を世界に発信し続けた。さらに、メキシコで行方不明となっていた巨大な壁画『明日の神話』(長さ30メートル、高さ5.5メートル)を執念で発見。「再生プロジェクト」を立ち上げ、現在は渋谷マークシティの連絡通路で、毎日29万人もの人々を見守っている。この光景は、敏子の情熱なしには存在し得なかった。
敏子は残念ながら、2006年の修復完成を待たずに2005年にこの世を去った。しかし、太郎に一生をささげ、太郎の死後もなお対話を続けた人生は、太郎に負けず劣らずロマンチックで、気高いものだったと言えるだろう。
敏子は『明日の神話』を「岡本太郎の最大、最高の傑作」と呼び、こう語っていた。
「悲惨で最悪な凶悪な出来事さえも人間は乗り越えていける。その先にこそ、明日の神話が拓かれる」
日本ロマンチスト協会が、岡本太郎を「知っている」と回答した男女300人を対象としたアンケート調査(※)では、彼の具体的な作品や活動についてもたずねた。

調査結果によると、1970年の大阪万博のシンボル『太陽の塔』は今や国民的なアイコンとしてほぼ全員に知られており、伝説のCMフレーズ『芸術は爆発だ!』も8割近い人々の心に刻み込まれている。そして、敏子が命がけで守り抜いた『明日の神話』も、着実にその存在を広めていることがわかった。

太郎が敏子と共に命を吹き込み、世の中に届けた作品や言葉。それらは没後30年を経た今も色褪せることなく、私たちの情熱を呼び覚ます「ヒカリ」として、しっかりと後世に受け継がれ、混迷を極める現代を生きる私たちの行く手を、力強く照らしている。
記事:研究員 佐々木倫子
(※)【調査概要】
・調査内容 :芸術家に関するアンケート
・調査対象 :全国/男女/20歳以上
・調査期間 :2026年4月10日~4月13日(予備調査および本調査)
・調査人数 :1,000人(予備調査)、300人(本調査)
・調査機関 :Freeasy
※本調査結果をご利用いただく際は、「日本ロマンチスト協会調べ」と明記ください。
【主な参考資料・出典】2026年4月21日閲覧
※本記事は上記資料に加え、関連メディアの公開情報を対象としたデスクリサーチ(編集者調べ)に基づき作成しています。
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