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マインドフルめしのススメ|“ながら食べ”の日常から離れ、五感を一つずつ取り戻す。

  • ロマンス

推しが中国茶を飲むというので

推しのアイドルがラジオで言った。

「最近、中国茶にハマっててさ。10杯を1時間半くらいかけて飲むんだよね」

……1時間半?

私の知るお茶とは、
 「ティーバッグを沈めて三分」「うっかり放置して渋くなる」世界である。
そんなに長くお茶と向き合える人間が、この世に存在するなんて。

でも、推しが言うなら話は別だ。

 「私も体験してみたい!」と思い立ち、
即座に検索窓へ「中国茶 専門店 東京」を打ち込んだ。

中国茶の宇宙へ

向かったのは、東京・根津の「閒茶(かんちゃ)」という専門店。
店内にはアンティーク家具や茶の道具がずらりと並び、4席ほどのテーブルには、シニア世代の女性二人組と、白髪の男性が一人、静かに杯を傾けている。

「やばい、玄人向けのお店だったかも……」

ドキドキしながらメニューを開くと、こんな言葉が並んでいた。

閒は間
自然と人との間のお茶
人と人との間のお茶
自分と自分の内面との間のお茶

あらやだ、なんて素敵なコンセプト!!
期待に胸を膨らませつつ、季節のおすすめをオーダーする。

すると、50代のマダム然とした店主が、にこやかに言った。
「自分で淹れてみますか?」

え、自分で?

脳内で「やめとけ」派と「やってみよう」派がせめぎ合う。けれど、マダムの柔らかい笑顔に背中を押され、挑戦することにした。

机の上には、次々と見慣れぬ茶器が並べられていく。
「ど素人がこの装備を扱えるのか……?」と内心ざわつきつつ、ミニ講座が始まった。

火にかけた急須が、こぽこぽと音を立てる。まずは、すべての茶器にお湯を注ぎ、温めていく。
手元で湯気がふわりとほどけて、それだけで心がゆるむような気がした。

茶碗に茶葉を入れ、もう一度、お湯をそっと注ぐ。蓋をしたら、深呼吸。
数分待ってから、蓋を少しずらし、茶海(ちゃかい)と呼ばれるガラスの器へ一滴残らず注ぎ込む。

最後に、小さな湯呑みへとお茶をうつせば、一服の出来上がり。

【写真】スマホで写真を撮ることが野暮に思えるほどの静けさだったため、当時の体験をもとにAIで再現した。蓋碗(がいわん)、茶海(ちゃかい)、茶杯(ちゃはい)と呼ばれる複数の茶器と、台湾カステラやドライフルーツなどの茶菓子が添えられている。

口をつけると、一気に華やかな香りが立ち上る。
フゥ、と息が漏れる。

その瞬間、少しずつ体の空気が抜けていくような感覚があった。

一杯ができあがるまでに、驚くほどの工程がある。
けれど湯呑みはおちょこのように小さく、
ほんのひと口で、あっという間に終わってしまう。

スマホも、本も、手を伸ばす余地がない。
思考を逃す隙もない。
ひたすら、目の前のお茶に集中する時間。

好奇心のままに「これ、何煎まで飲めるんですか?」と尋ねると、

マダムは微笑んで言った。
「何煎でも飲めますよ」

エッ。無限?

そこは、中国茶という名の宇宙だった。

杯を重ねていくうちに、気づけば1時間半が経過。
体はぽかぽか、心はすーっと穏やかだ。

店を出て風に当たりながら、ふと考える。

――そういえば、最後にスマホを見ないで食事をしたのは、いつだったろう。

一食に没頭するという口福

驚くことに、世間では「ながら食べ」が普通らしい。国内の調査によると、テレビを見ながら食べる人は6割、スマホを見ながら食事をする若年層は、なんと約8割にのぼるという。

つまり、私たちは「食事」に集中する時間を、すっかり失っている。

それに比べて、中国茶は真逆だった。ひと口ごとに香りも味も変わり、体の奥から「おいしい」という感覚が、じんわり湧き出してくる。

あれはきっと、食べものを通して、自分の感覚を取り戻す時間だったのだ。

食事を丁寧に味わうことは、いちばん身近なセルフケアであり、五感で没頭できる、マインドフルな時間。

いうなれば――“マインドフルめし”だ。

それでも、私たちは忙しい

とはいえ——だ。
 毎日1時間もお茶を飲むなんて、できるかい! めんどくさ!

丁寧な暮らし? 無理無理。私は「冷凍食品に“ラップをかけずに温めてください”と書いてあるだけで嬉しい」側の人間だ。

果たして、世の中にどれだけ「一食を丁寧に味わえる人がいるのだろうか」と。
編集会議でそんな話をしていたら、思わぬ意見をもらった。

「洗濯物を畳むのも、お皿を洗うのも、コーヒーをわざわざハンドドリップするのも、運転しながらエンジン音を聞くのも、“この瞬間”に集中できるから気持ちが良い。日常のあらゆる場所に、マインドフルな体験があるのでは?」

ああ、たしかに。そうやって、自分の感覚を“ひとつだけ”でも意識する時間が、忙しい毎日の中で呼吸を整える合図になるのかもしれない。

“ながら食べ”の日常から離れ、五感を取り戻す。

気が向いたときでいい。
五感のうち、どれか一つに集中してみる。

例えば、

・味噌汁を作るときに、出汁の香りに意識を向けてみたり、
・炊きたてのご飯の、湯気があがる瞬間を祝ってみたり、
・すり鉢でゴマをひき、ゴリゴリという音とリズムに呼吸を合わせてみたり、

ほんの数分でも、一つの感覚に没頭することで得られる口福は、想像よりずっと大きく、日常に「マインドフルな時間」があるだけで、なんだか背筋が伸びるような気がしてくる。

季節は食欲の秋。そして、10月16日は「食べること」に向き合う、世界食糧デー

そんな今だからこそ、日々の忙しさに少しだけあらがい、「一食」の喜びを、ゆっくり噛み締めてみる。

たった一杯のお茶、一膳のごはんに宿る小さな幸福。

そんな「マインドフルめし」を、ひとさじ、どうぞ。

記事:研究員 大森千春

【主な参考資料・出典】2025年10月22日閲覧

※本記事は上記資料に加え、関連メディアの公開情報を対象としたデスクリサーチ(編集者調べ)に基づき作成しています。

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