読み物

クラシックのコンサートに行き、何とも心地よい「眠りの沼」に引きずり込まれた経験がある方は、少なくないのではないか。
私にも経験がある。昨年秋、サントリーホール最前列。5万円近いチケットを握りしめ、誰よりも楽しみにしていた出演者と曲目にも関わらず……
あの場所には、それさえも「究極の癒し」に変える魔法があるようだ。
そんな、「クラシックのウトウト」を逆手にとった伝説のCMがある。サントリーホール開館10周年を記念して制作された『サントリーホール「陶酔」』だ。
登場するのは、クラシックとはおよそ縁がなさそうな中年男性。最高の音響と、身体を包み込む快適な座席に身を委ね、演奏が始まると同時に「船を漕ぎ」始める。周囲の咳払いや肘鉄にハッと目覚めるものの、あまりの心地よさに抗えず、さらに深い眠りに誘われ……
この広告は日本のみならず数多くの賞を獲得し、「ロンドン国際広告賞」を受賞するなど世界中で絶賛された。『ピッカピカの一年生』を生み出した杉山恒太郎(現、ライトパブリシティ社長)が、電通時代にキャッチコピーを担当したものだ。
「居眠りすらも、最高の贅沢に」――
そんなホールの懐の深さと、カラヤンの代名詞とも言える「陶酔」の境地を重ね合わせた傑作といえよう。
今年は、サントリーホールの開場から40周年。この至高の空間には、これまで数多の情熱が注がれてきた。中でも、日本のクラシック界の発展に生涯を捧げ、裏方で支え続けた「怪男児・藤田潔(きよし)」の存在を忘れることはできない。
なお、本稿では読みやすさを考慮し、敬称を省略する。

藤田潔は「裏方は表に出るべきではない」と自らを律していた。そのため、その功績が表立って語られる事は少ない。メディアや音楽の世界ではその名が轟(とどろ)いているが、一般の人がその名にふれる機会は、これまで決して多くはなかったはずだ。
藤田は1929年、愛媛県新居浜市で最古の酒屋に、9人兄弟の長男として生を受けた。家業を継ぐべく、さらなる学びを求めて早稲田大学商学部へ入学。原田俊夫教授に師事。転機は、就職活動の折に訪れる。当時の隣人から小谷 正一(こたに まさかず)が立ち上げたばかりの「ラジオ・テレヴィ・センター(現、株式会社MBS企画)」を紹介され、53年春に入社した。この年は、NHKと日本テレビが開局した年でもある。
小谷は伝説的なプロデューサーで、逸話は枚挙にいとまがない。毎日新聞時代、闘牛大会の開催に奔走する小谷の様は、同僚・井上靖の手によって『闘牛』として描かれ、芥川賞を受賞している。さらに、プロ野球パシフィック・リーグの創設など、常に新たな仕掛けを世に送り出してきた。黎明期の電通に在籍したこともあり、広告代理店の役割を「媒体の広告枠の販売」から「クリエイティブ」の転換へと導いた人物でもあった。
そんな小谷の直属となった藤田は、乾いた大地が水を吸い込むよう、その仕事術を吸収していく。中でも、ソ連(現ロシア)の世界的なヴァイオリニスト、ダヴィッド・オイストラフの初招聘(しょうへい)※は印象深い仕事の一つだ。当時、日本とソ連は国交もなく、米ソ冷戦の真っ只中。社会的にもデモが渦巻く、極めて困難な時代である。
※井上靖は小谷がこのオイストラフ招聘を成功させた事績を題材に、長編小説『黒い蝶』を発表し話題に
小谷は藤田に、オイストラフ滞在中の付き人兼マネージャーを命じた。言葉も通じぬ異国の巨匠に戸惑いながらも、持ち前の誠実さと機転で、その重責を果たしている。離日の際、荷物を持って機内までオイストラフを見送った際、オイストラフは藤田の肩を抱き寄せ、こうささやいたという
「潔、一緒にモスクワに行こう」
この一言は、藤田が築き上げた信頼のすべてが凝縮された証であった。
藤田は、入社から7年後に独立。1960年、国産初のカラーテレビ発売という新時代の幕開けと共に、総合広告会社「ビデオプロモーション」を設立する。「ひらめきを感動に」変える彼の挑戦は、ここからテレビ史に残る数々の伝説(11PMなど)へと繋がっていくことになる。


逝去に際して制作されたメモリアル版『テレビ怪男児』(左)本著はもともと、2009年にビデオプロモーション創立50周年を記念し、『テレビ快男児 —あの凄い番組をつくった男の50年—』(プレジデント社)として上梓されたものである
藤田のキャリアは、テレビがお茶の間に浸透し、高度経済成長を経てバブル崩壊を駆け抜けた激動の時代とリンクする。商家出身の藤田にとって、刺激に満ちた黎明期から、組織が安定し保守的な空気に変わってゆくことは、自ら事業を起こす契機となった。
創業当時は、アイ・ジョージ(NHK紅白歌合戦に12年連続で出場した歌手)、永六輔(放送作家)、野坂昭如(あきゆき)(小説家『火垂るの墓』作者・歌手)といった時代の寵児たちのマネージメントを軸に、広告代理店として独創的な番組制作を次々と手掛けている。
藤田は2021年に91歳でこの世を去るが、師匠の小谷に勝るとも劣らない「日本初」の金字塔を打ち立てた。その足跡は枚挙にいとまがないが、一部例をあげる。
・日本のアニメ輸出第一号となった「鉄腕アトム」
・深夜番組という未開の荒野を切り拓いた 日本テレビ「11PM」
・スポーツの衛星生中継を実現した「マスターズゴルフトーナメント」
斬新なアイディアで文化を牽引した事例の詳細は、著書『テレビ怪男児』(プレジデント社)に譲るとして、本稿では藤田がクラシック音楽の歴史に刻んだ奇跡を紹介したい。

サントリーのクラシックとの結びつきの原点は、二代目社長・佐治敬三の時代、1967年に始まったTBSラジオ『百万人の音楽』にまで遡(さかのぼ)る。この番組は藤田がビデオプロモーションで企画し、サントリーが提供したものだ。作曲家で芥川龍之介の三男・芥川也寸志と女優の野際陽子がホストを務め、洒脱なトークで人気を博した。この番組の縁が、1969年の「鳥井音楽財団(のちのサントリー音楽財団)」設立へと結実してゆく。
さらに藤田は、1982年に8カ国合作のテレビ映画「モーツァルト」に関わった縁から、東京・大丸で開催された「モーツァルト展」をプロデュースする。自筆譜や衣類など貴重な資料が公開された「日本初の音楽家の展覧会」である。
その後、この企画は1986年のサントリーホール開館に向けた壮大なプレイベント、「サントリー音楽文化展」として継承された。サントリー美術館を舞台に、ベートーヴェンやショパンなど10人の巨匠たちが取り上げられ、クラシックへの造詣が深い今上天皇(当時は皇太子)も、すべての回に足を運ばれ、鑑賞を楽しまれたという。

1980年代初頭、日本の音楽家たちが世界で頭角を現し、ようやく日本にも世界最高峰のオーケストラが招聘できる時代が到来した。しかし、受け皿は多目的ホールのみ。そんな折、鳥井音楽財団の活動が軌道に乗った時期に、芥川は佐治にコンサート専用ホールの建設を強く薦める。
佐治は学生時代からクラシック音楽に親しみ、父・信治郎の遺訓「酒を売るな、文化を売れ」を血肉としていた。意を決した佐治に、天が味方する。東京都の都市計画『赤坂・六本木のアークヒルズ再開発』における文化施設の担い手として、サントリーに白羽の矢が立ったのだ。1981年に「ベルリン・フィル創立100周年記念公演(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮)」のスポンサーを務めたことも、運命を加速させた。
1983年1月、佐治は世界の名門ホールを巡る視察の旅に出る。同行したのは、設計を担う親友の佐野正一、世界的なチェリストで後に4代目館長を務める 堤剛(つつみつよし)、そして藤田らであった。
ウィーンの楽友協会のグローサーザール訪問から始まった旅は、次いで訪れたベルリンで一つの頂点に達する。20世紀を代表する指揮者・ヘルベルト・フォン・カラヤンが、彼らに極上のアドバイスを授けたのである。
「コンサートは舞台上の演奏家と聴衆が一体となってつくり出すもの。ステージを中央に配置し、その周りを客席がぐるりと囲み、皆で音楽をつくっている雰囲気ができあがる、このヴィンヤード(ぶどう畑)形式こそ、ふさわしい」
佐治はポンッと膝を叩き、その場で即答した。
「ほなら、そうしましょう」と


2024年3月6日にサントリーホールで行われた角野隼斗 全国ツアーにて筆者撮影 ホールの入口には佐治敬三のプレート(画像左)が掲げられている
1986年10月12日に開館したサントリーホールには、前述の視察で得た知見が、ハード面のみならず、その後の運営にも色濃く反映された。例えば、コンサートの前後や休憩時間(幕間)にホワイエ(ロビー)でお酒を楽しむという、優雅で社交的な鑑賞スタイルを日本に定着させたのは、まさにこのホールが初めてであった。
カラヤンは、ベルリンフィルを率いたサントリーホールでの演奏後、「このホールは、まるで音の宝石箱だ」と最大の賛辞を贈った。その輝きを裏で支えたのが、怪男児・藤田潔である。
この男こそ、世界のクラシック界やメディア業界における、偉大なる「陰の功労者」だ。その情熱は没後も引き継がれている。未曾有のコロナ禍においてウィーン・フィルの来日公演を実現に導いた際も、ビデオプロモーションがスポンサーを紹介することで窮地を救った。
その支援の輪は今、次世代の才能へと広がっている。世界を舞台に活躍するピアニスト・角野隼斗のラジオ番組『TOKYO TATEMONO MUSIC OF SPHERES』(J-WAVE)や、目覚ましい躍進を遂げる亀井聖矢のリサイタルなど、伝統ある名門オーケストラから気鋭の若手まで、同社は多岐にわたる文化の発信を支え続けている。
藤田が手掛けた仕事にはロマンがあり、時を経ても風化しない。TBSテレビ『世界遺産』、テレビ東京『新美の巨人たち』、テレビ朝日『食彩の王国』……
これら長寿番組の根底には藤田がこだわり続けた「視聴質」という概念がある。視聴率の壁と戦いながら、人間の感性を揺さぶる「本物の質」を追求し続けた心意気。
それは、効率やスピードが重視されるAI時代の今、わたしたちに「豊かさの本質とは何か」を改めて問いかける、重要なメッセージのように思えてならない。
記事:研究員 佐々木 倫子
【主な参考資料・出典】 2026年2月9日閲覧
※本記事は上記資料に加え、関連メディアの公開情報を対象としたデスクリサーチ(編集者調べ)に基づき作成しています。
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