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お盆に踊る──。
いまや日本の夏を象徴する盆踊りは、海外でも “BON DANCE” として知られ、日本文化を象徴するイベントになっている。
徳島の阿波おどり、岐阜の郡上おどり、秋田の西馬音内盆踊りなど、「日本三大盆踊り」と呼ばれる盆踊りは、いまも全国から人びとを惹きつけてやまない。

一方で、近年では、最新の音楽、ファッション、照明演出などを取り入れた新しいスタイルの盆踊りも各地で生まれている。

伝統は、ただ守られるだけではない。時代とともに変化し、進化していくものだ。伝統とは、革新の連続なのだ。盆踊りの魅力も、その柔軟さにあるといえるだろう。
お盆は、旧暦の7月13日から15日ごろに行われる先祖供養の行事で、「盂蘭盆(うらぼん)」とも呼ばれる。一般に、盆踊りと総称されるこの時期の踊りは、先祖供養と鎮送のために踊るとされる。
古く日本では、旧暦の正月と7月を「他界のものがこの世に訪れる時」と考え、正月には福をもたらす神々が、7月には祖霊が戻るとされた。
人びとは盆棚をしつらえ、火を焚き、そして踊った。
帰ってきた魂を慰め、感謝をこめて送り出すために。
その踊りは、祈りであり、娯楽であり、そして共同体を映す鏡でもあった。
盆踊りの源流は、天台宗の空也上人によってはじめられ、鎌倉時代に一遍上人が広めた「踊り念仏」に遡る。
踊り念仏は、念仏を唱えながら踊ることで、煩悩から解き放たれる喜びを得ようとする宗教的な舞踊である。俗なる人間が仏との一体化を求め、心のまま一心不乱に体を動かし、恍惚の境地に達する──その姿は「野馬が暴れるようだ」と記されるほど、熱狂的だったという。
やがて念仏は歌へと変わり、供養の和讃を当時の流行歌に置きかえ、それを聴きながら踊る「念仏踊り」へと発展していく。さらに、平安期に起こり全国に広がった「風流(ふりゅう)」と結びつく。華やかな衣装に笛や太鼓の音が響き、人びとは大勢で舞い踊った。宗教行事の枠を超え、人びとの娯楽や芸能としても広がっていったのである。

こうして念仏踊りは次第に芸能・娯楽化し、寺の境内や町の広場で輪になって踊る「輪踊り」や、通りを進みながら踊る「行進踊り」など、今日の盆踊りに近い形が生まれていった。
江戸期に入ると、幕藩体制のもとで庶民の生活は厳しく統制されるようになる。
大規模で華美な盆踊りは次第に姿を潜め、浴衣姿で踊る素朴な形へと変化していった。
音頭取りの歌う「口説(くどき)」に合わせ、老若男女が輪になって踊る──。
いまに続く盆踊りのスタイルが定着したのはこの頃である。
盆踊りは、先祖を敬う祈りの気持ちを受け継ぎながら、時代の移り変わりとともに人びとの楽しみや交流の場としても広がり、現代の姿へと受け継がれている。
口説節の例:滋賀県公式YouTubeチャンネル(shigakoho) 江州音頭
※民謡の分類では長編の歌物語のことを「口説節」という。
庶民の生活に深く根づいた盆踊りは、一方で「風紀を乱す」とされ、各地で禁止令が繰り返された。明治期には厳しい取締りも行われている。
それでも人びとは踊りをやめなかった。
盆踊りは先祖供養であると同時に、心と体を解き放つ「ハレ」の場だったからだ。
民俗学では、日常を「ケ」、非日常を「ハレ」と呼ぶ。
日々の労働や家族の役割に縛られる「ケ」の世界──。
だが、盆の夜だけは境界がゆるみ、身分をこえて輪になり、歌い、踊った。
男女が歌を掛け合い、求愛や交歓が生まれることもあった。ときに夫婦であっても、別の相手との関係が許されることもあったという。
それは不義ではなく、共同体の秩序の中で認められた“ハレの行為”。
欲望を排除するのではなく、盆踊りという特別な枠組みに包み込むことで、日常が守られていた。夜這いの習俗も、この思想の延長にあるという。対象や条件は地域によって異なったが、いずれも共同体を維持するための社会的な仕組みだった。

昔は、ひとりでは生きていけなかった。
だからこそ、人びとは罪や欲、逸脱といったものを抱えながら、地域という共同体の中で折り合いをつけて生きていたのである。
盆踊りの輪は、祈りと欲望、秩序と自由、生と死のあわいをつなぐ“境界の輪”でもあったのだろう。
明治期の取締りで、多くの盆踊りは姿を消した。
地方では細々と受け継がれた盆踊りも、都市ではその風習がほとんど姿を消していた。
明治期の東京でも同様で、風紀統制や取締りによって盆踊りの賑わいは絶え、『新選東京名所図絵』(明治34年)には、
「盆踊り、むかしは江戸市中にも行はれしが、ひさしく絶えてなし、唯佃島のみに猶その古風を存し、今に至るまで特許を得て之を行へり。」
と記されている。
その記述のとおり、失われた都市の風景の中で、佃島の盆踊りだけが奇跡的に受け継がれていた。佃島の盆踊りは、海で亡くなった人びとや無縁仏を供養する念仏踊りに由来するとされ、東京に残る唯一の盆踊りの姿であった。
背景には、徳川家康と佃島の漁民との縁がある。
徳川家康が摂津国(現大阪府・兵庫県の一部)の住吉神社へ参詣する途中、河川が増水して渡れずに困っていたところ、摂津国西成郡佃村の漁民たちが舟を出して助けた。その働きを家康がねぎらい、漁業特権を与えて江戸への移住も許可したと伝えられている。

こうして特別に保護を受けた佃の人びとは、故郷の盆踊りを江戸の地でも守り伝えることができたのである。太鼓の拍子に合わせ、歌とともに行きつ戻りつするその踊りにはどこか哀愁がただよい、その姿は今も変わらず受け継がれている。
このように、都市の盆踊りが途絶えた状況のなか、大正から昭和にかけて、失われた都市の「ハレの場」を求める人々の願いに応えるように、盆踊りはふたたび東京の真ん中に姿を現すことになる。
昭和8年(1933)、東京の中心で『東京音頭』が誕生した。

もとは有楽町界隈で商店主をする人々が、景気を盛り上げようと昭和7年(1932年)に制作した『丸之内音頭』が、のちに『東京音頭』として全国に広まったものである。
『丸之内音頭』の企画は、有楽町のガード脇にあった銭湯での、朝風呂のひとときに生まれた。
日比谷公園松本楼の主人らが朝風呂に浸かりながら「田舎では夏に盆踊りというのをやるが、東京にはなくて寂しい。景気づけに今年から『丸之内音頭』としてやってみますか」と話したのが発端だ。
春に話した企画は、その年の夏に実現し、日比谷公園では櫓が組まれ、芸妓や雛妓も加わって華やかな盆踊りが繰り広げられた。
雑誌『良久可記(らくがき)』第十五号には、当時の驚きと喜びが、次のように綴られている。
「私は東京生まれなので、盆踊りの楽しみを知らない。田舎の鎮守の森の鄙びた盆踊り……絵や踊りの俳句から想像して夢の世界に憧れていた。ところが、東京のど真ん中に盆踊りが出現したのだから、まさに夢が現実になった驚きと喜びで、電車に乗って日比谷まで出かける仕儀となった」
『丸之内音頭』の人気にあやかり、日本ビクターは昭和7年(1932年)の“大東京市誕生”に合わせ、歌詞と曲名を改めた『東京音頭』を発売する。これを契機に、夏の東京では音頭に合わせて踊ることが当たり前の光景となった。盆踊りの人気は凄まじく、夜になると盆踊りに人が流れ、映画館の客足が落ちたほどであった。
作詞・作曲を手がけた西條八十と中山晋平も、「東京音頭の騒ぎで夜も眠れない。自業自得とはこのこと」と自伝に記している。
かつて踊られていた盆踊りが、ビル街や公園へと舞台を移し、労働者や市民が輪になって踊る──。
それは、戦前の東京に芽生えた「都市のハレ」だったのではないか。
失われた風習が、時代のうつろいのなかでかたちを変え、再び都市によみがえったその光景こそ、東京の人びとが求め続けてきた「夏のよろこび」のあらわれだったように思われる。
近年、最新の音楽や演出を取り入れた多様な盆踊りに対して、「祖先への敬意が足りない」「クラブ化している」といった声も聞かれる。なかには「もう伝統的な盆踊りとはいえない」と眉をひそめる人もいる。
でも、ここで立ち止まって考えてみたい。
そもそも“伝統”とは何なのか? 昔からまったく変わらず続いてきたものなのだろうか。
それとも、時代ごとの変化を受けとめながら、その姿を変えてきたものなのだろうか。
守るべきものは守り、攻めるべきところは攻めながら、今日まで受け継がれてきたのではないか。
歴史をふりかえると、盆踊りは本来、祖霊供養の場であると同時に、人びとが日常から一時的に解き放たれる「ハレの場」として発達してきたといえる。祈りと解放は、対立するものではなく、むしろ相補的に共存してきたのである。
人びとは思いのままに体を動かし、興奮や解放感を求めて踊った。江戸期には取締りで姿は素朴になったものの、盆の夜には身分や立場を越えて歌い踊り、日常のしがらみをしばし忘れる時間として愛されていた。
こうした歴史を踏まえるなら、近年の都市型盆踊りがクラブ文化やポップカルチャーの影響を受けながら発展している状況も、単なる逸脱とは言い切れない。
「ここでは日常を少しだけはみ出してよい」という感覚は、盆踊りが長く担ってきたハレの機能の、現代的な変奏と捉えることができる。
もちろん、盆踊りの由来や地域の歴史への想像力を失ってしまえば、盆踊りは単なる娯楽イベントへと矮小化されてしまう。ただし、「祈り」と「解放」のどちらの側面にも目を向けるなら、現代の盆踊りもまた、禁止と復活を繰り返しながら続いてきた長い歴史のひとつの流れの上にあると考えられる。
盆踊りは、祈りと解放、規制と再生を行き来しながら、時代ごとに形を変え、何度もよみがえってきた。現代の踊りの輪の中にも、歌い、踊り、出会い、祈った人びとの「ハレの記憶」を、たしかに感じられるような気がするのである。

記事:研究員 佐藤千春
【主な参考資料・出典】 2025年11月6日閲覧
・西城八十『西條八十[唄の自叙伝]』日本図書センター、1997
・赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』ちくま学芸文庫、2004
・下川耿史『盆踊り 乱交の民俗学』作品社、2011
・三隅治雄『踊りの宇宙』吉川弘文館、2002
・中村治『京都洛北一条寺-その暮らしの変化-』大阪公立大学共同出版会、2014
・竹内勉『日本民謡事典I~Ⅲ』朝倉書店、2018
※本記事は上記資料に加え、関連メディアの公開情報を対象としたデスクリサーチ(編集者調べ)に基づき作成しています。
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